ピューリタニズムとナショナリズム

昼から日進(埼京線)。日本ピューリタニズム学会第2回研究大会@聖学院大学


昨年発足したばかりの若い学会。神学、宗教史、思想史、文学などの専門家の集まり。扱う時代や地域も様々で、初期近代イングランドはもとより、ニューイングランドにおける展開や、日本(特に明治期)における受容なども視野に。


昨日と今日の2日間に渡るプログラムだったのだけど、今日の午後のシンポジウム「ピューリタニズムとナショナリズム――初期近代イギリス文学を中心に」を聴きに。エリザベス朝から18世紀にかけて、ピューリタニズム(および、広くプロテスタンティズム)が、「ネイション」や「国家」「国民」といった概念、およびそれらに対する「意識」としての「ナショナリズム」と、どのように関わるのか、そのあたりの話。この時代の英文学を研究している40代の研究者としてはトップクラスの方々が講師であったので、どれもとても興味深い話。


・「十六世紀イギリス演劇における殉教者と国家意識の形成」
カトリック的な様式である聖人伝をプロテスタンティズムの側で領有した16世紀イングランドの「殉教者もの」の演劇や、有名なジョン・フォックスの『殉教者列伝』(1563年)などに見られる殉教者表象を系譜的に辿っていくと、1580年代から90年代にかけて、殉教者表象が明確に「政治化」され、いわば「国家のための殉教者」というイメージが出始める。そのイメージの形成には、戦闘的プロテスタント軍人であったレスター伯らのイメージが重なり合う。その辺りのある種のパラダイム・シフトを、多くの一次資料と多様な歴史的コンテクストへ目配りしながら論じるもの。


・「マーヴェルとネイション意識のゆらぎ」
第一次英蘭戦争中に執筆されたとされる "The Character of Holland"(「オランダのキャラクター」) と1670年ごろ執筆とされる "The Loyal Scot"(「忠実なるスコットランド人」) というマーヴェルの二作品を検討することで、マーヴェルのテクストにおけるイングランドの「ネイション」の意識の「ゆらぎ」を見るもの。ここで念頭に置かれているのは、リンダ・コリーによる「ブリティッシュネス」形成の議論で、コリーの議論では、イングランドスコットランドの合同以後、18世紀を通じてカトリックのフランスという「大文字の他者」と対峙する中で「ブリティッシュネス」が形成されたということになるのだけど、今回の話では、18世紀以前、フランスがまだ「大文字の他者」として固定されておらず、さらにはイングランドスコットランドも合同されていなかった時期を対象に、「イングリッシュネス」がどのようにオランダやスコットランドといった同じプロテスタントの様々な「他者」との対峙の中でゆらぎながら形成されつつあったのか(あるいはいかにそれが曖昧であったのか)を論じるもの。


・「スターンとセンティメンタル・ナショナリズム
英国国教会の牧師でもあったローレンス・スターンの『センティメンタル・ジャーニー』を素材に、18世紀後半のセンティメンタリズムの神学的側面と当時のプロテスタントの思想との関係から、「感受性」や「センティメンタルであること」がカトリックのフランスとの対峙の中でどのように規定されるのか。特にコリーの研究以降(だと思う)、17〜18世紀に関する研究では、イングランド(18世紀ならブリテン)とフランスとの差異化の様々な言説が取り上げられ、「ネイション」や「ナショナリズム」が論じられるけど、今回の話は、「感受性の発露」をめぐるナショナリズムという、非常に貴重な話であった。


と、まあ、私の雑駁なまとめでは何のことかよくわからないかと思われるし、私の理解が間違っていたり、「要点はそこではない」という突っ込みもあるかとも思う。が、まあ、所詮私ですから。


フロアからは、「ピューリタニズム」、「ネイション」、「ナショナリズム」などの概念規定が曖昧であるといった批判的意見もいろいろ出たわけだけど、問題の大きさを考えれば止む無しという気もしないではないし、一方で、そういった概念の「曖昧さ」や「ゆらぎ」それ自体を俎上に載せてみたという側面もあるのではないかと思ったりもする。


で、個人的な関心として、今回、殉教者ものの話を聴いていて、ドライデンの『暴君の恋』という英雄劇を、その文脈で考えることができるかもしれないと思ったり。この作品、「英雄劇」なんだけど、一方で、アレキサンドリアの聖キャサリンの殉教を扱った作品である。「暴君」であるローマ皇帝マクシミアヌス(非キリスト教徒)が一目ぼれしたキャサリンに振られたもんだから迫害して死に追いやってしまう、と、こうまとめるとどうしようもない話だけど、実際そうなのだから仕方ない(もちろん、他にもいろいろな筋があるのだけど)。で、この話、ドライデンの他の英雄劇と比べても明らかに浮いているので、先日の学会での発表の折にも、どうにも自分の議論の中に組み込めなくて、おそらくは違う文脈を設定して位置づけを考えないといけないと思ったりしたのである。ひとつはもちろんドライデンにとっての(そして初期近代イングランドにとっての)ローマ帝国という存在、もうひとつは「キリスト教徒/非キリスト教徒」という対立軸(これは他の英雄劇とも絡む問題)なのだけど、それにしてもなぜ4世紀のローマ帝国の暴君でなければいけないのかがさっぱりわからなかったわけで、しかしながら、例えば革命の折に処刑されたチャールズ一世が「殉教者」として表象されたりして、それが王政復古期にも行われたりしたことを考えれば、ドライデンが英雄劇において文字通りの聖人殉教者を登場させたことには、何らかの同時代的政治的必然性があったのではないかと。まあ、そんなことを思った次第。思いつき。