発表準備が

はかどらない。もともとスロー・スターターなのだけど、今回ははじめから出遅れているわけで、残り数日で遅れを取り戻せるとも思えない。今週を全部休講にでもすればどうにかなるかもしれないけど、そうもいかないしね。
まあ、できる限りのことをやって、できたところまで話をすることにしよう。

ちなみに今回のキーワードは(たぶん)「寛容」(indulgence)。

もともとドライデンが『アブサロムとアキトフェル』を書く契機になったのは、1679年から81年までの「王位継承排除危機」(Exclusion Crisis)――国王チャールズ2世に嫡出子がいないので、王位継承者が弟のヨーク公ジェイムズとなることになっていたわけだけど、そのジェイムズがカトリックであることを公言してしまっていたので、それに反発する人たちが彼の王位継承権を剥奪する法案を議会で通そうとしていたので、いろいろもめることになった――であって、ドライデンはその排除論者(Exclusionist、議会における反国王派であり、Whigと呼ばれることになった)を諷刺するためにこの作品を書いたのであった。

それに先立って、1670年代にはすでに議会はカトリックを公職から追放する審査法(Test Act)を二度にわたって成立させているのだけど(1673年と1678年)、二度目の際には(もちろん国王派の要請で)この法律の適用範囲からヨーク公ジェイムズを除外する一文を付け加えている(一度目の時にはその文言はなかったので、ヨーク公は当時就いていた海軍司令の座を退いている)。

で、最初の審査法の前年1672年には国王は信仰寛容宣言(Declaration of Indulgence)を出していて、ここでカトリックと非国教徒(イングランド国教会以外のプロテスタント)に対して、一定の条件を満たせば信仰の自由を認めるとした。ちなみにこれは二度目の宣言で、一回目は1662年に出している。これらは、国王大権(Prerogative)の一部である効力失効権(Suspending Power)を行使したものだけど、二度目の際には議会が猛反発し、翌1673年に宣言の撤回と先の審査法の成立を勝ち取ったのであった。

国王の二度目の信仰寛容宣言は、それに先立つ1670年にフランス国王ルイ14世との間で結ばれたドーヴァーの密約(Secret Treaty of Dover)に従ったものであり、イングランドカトリックを「復活」させることを意図したものであった(そのための援助をフランスから受けるというのが密約の内容)。なのでイングランド国内へのフランスやローマの影響力の増大を懸念した議会などで猛反発を受けたりしたのであった。

そんな感じで、カトリックに対する「寛容」をめぐってもめにもめた結果が、王位継承排除危機から名誉革命へと至る流れを作る要因となったわけである。これが一つ目の「寛容」をめぐる文脈。

もうひとつは、王政復古の1660年にチャールズ2世が出したブレダ宣言(Declaration of Breda)と、それを立法化した大赦法(Act of Indemnity and Oblivion)。これらは、思いっきり平たく言えば、1640年代〜50年代の「反乱」はなかったことにしてあげますよ、という内容。ただし、1649年のチャールズ1世の処刑を決める裁判で陪審を務め、処刑を宣告、執行令状に署名をした者たち(国王弑逆者 Regicides)など50数名はその適用範囲外とされ、王政復古当時に生き残っていたものは処罰を受けたり、国外逃亡したりした。

このような政策は国王の政治的「寛容」を示すものであり、(王党派に言わせれば)内乱で傷ついた国を癒すための、国王の慈愛に満ちた行いであった。

ところが、結果何が起こったかというと、内乱をなかったことにしたおかげで、その内乱を引き起こした国内の様々な対立要因を温存してしまったのである。それがスチュアート家の宗教政策や外交政策(親カトリック、親フランス)、国王大権の行使などをめぐる対立である。

なもので、王位継承排除危機の際の国王派(Tory)からすれば、王政復古の段階で「寛容さ」など見せずに問題を根絶やしにしておけばよかったのに、ということになったわけだ。もちろん、内乱の際の王党派と国王派、排除危機の際のトーリーとホイッグとは、必ずしも同じような人脈で構成されているわけではなく、内乱時には王党派であってもホイッグに与する者、またその逆などもいるわけだけど。

いずれにしろ、これが「寛容」をめぐる二つ目の文脈。

三つ目は、国王チャールズ2世の私人/父親としての「寛容(indulgence)」。これはむしろ甘さとか溺愛とかと訳すべきもの。彼には正妻であるキャサリン・オブ・ブラガンサ(Catherine of Braganza ポルトガル出身でカトリック)との間には子どもはいなかったけど、愛人たちとの間に多数の子どもがいた。そのうちの一人、モンマス公ジェイムズ・スコット(James Scott, Duke of Monmouth)は、軍人として有能であり、また容姿も麗しかったらしく、国王からも重用され、民衆にも人気があった(これは彼がプロテスタントであったことも大きい)。で、このモンマス公こそが、王位継承排除危機の際に、ヨーク公に対抗する王位継承候補者として、ホイッグによって擁立されたのであった。

もちろん、ここには、そもそも国王が複数の愛人を相手に性的放埓(これもindulgence)をくり返していたという点があり、それもまた国王への批判のもととなっていたのである。なので、このあたりがindulgenceをめぐる三つ目の文脈。


長々書いたけど、なんでこんなにindulgenceにこだわるかといえば、『アブサロムとアキトフェル』の中でこの言葉(と、mercyとかmildnessあたり)がいっぱい使われているから、という至極単純な理由。で、今回は上記の三つの文脈において、この作品をどう読めるかということと、そこに陰に陽に影響をおよぼしている対オランダ、対フランス意識について考えてみたりする。


なんか、こうやって書いてみると、なんともつまらない話になりそうな予感がする。結局、作品のレトリックや戦略をどれだけ読み込めるかということにかかっているかな。

訂正(6月9日):信仰寛容宣言→信仰自由宣言が正しそう(研究社の『英米史辞典』でもそうなっているし。)