基礎トレーニング
週末、出掛ける際、電車で読むものを持たずに家を出てしまったので、近所の古本屋で↓を購入。車中と待ち時間などで読む。
- 作者: 齋藤孝,斎藤兆史
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2004/04/10
- メディア: 新書
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それぞれ国語教育と英語教育の専門家としての立場から、昨今の言語教育や教育行政への批判を展開していて、興味深い。特に昨今の「コミュニケーション重視」の英語教育への批判は厳しいものがある。私なんかも(自分ではそのような教育はほとんど受けたことがないのに)そういう授業をやってくれと時には言われることもあって、どうにも困ってしまっているし、もちろん満足のいく(こちらとしても、学生としても)授業などできていない。いや、それは単に私の実力不足(「英語力」という点でも「授業力」(?)という点でも)のせいだけど、それでも、あまりに偏った英語カリキュラムを組んでいる大学などへ行ってみると、これでいいのかしらと思ったりはする。
で、この対談でお二人が繰り返し述べているのは、今の学校教育の現場では、基本となる「型」を何度も繰り返して身につける「トレーニング」や「鍛え」の要素が不足しているということ。英語で言えば、例えば文法や語法がそうだし、テキストの音読や素読などもそう。こういった基礎トレーニングをしないで、「まずは英語を<使って>みましょう(あるいは英語をシャワーのように浴びましょう)、そうすれば<英語が身につきます>」というスタンスで、「国際社会で英語を使える」ようになるのか、それは喩えれば、バタ足やクロールの腕の使い方を練習しないで、とりあえずプールでばしゃばしゃ「泳いで」いれば、それでいつかは大会で入賞できますよ、と言っているようなもの。この喩え事態は極端なものだけど、でもその「極端」に近い状況が実際に見られることもあるわけで。
で、私は(実は)何事においても「極端」なのはあまり好きではない。自分が極端なことを述べている(行っている)ことに無自覚な言動は、もっと好きではないけど。そういえば、ドライデンなんかは"extremity"というのを嫌がって"moderation"を称揚してみせたりするし、作品中で極端な言動をする人物などを出す際には、ちゃんとそれが極端であることを認め、その必要性を説いたりする(あるいは弁明する)くらいの自意識はあるようだ。そういうところは嫌いではない。
まあ、だからといって、何事もバランスが大事とか言っているだけではどうしようもないのだけどね。