ド・マン、エンプソン、ハイデガー、ウィリアムズ、そしてベンヤミン

15日(土曜日)、前日の夜とその日の午前中でド・マンの"The Rhetoric of Temporarity"をどうにか読了し、昼から高田馬場新英米文学会早稲田奉仕園

今回は先月の例会に続き、「秋の理論研究」の第2回「アレゴリーとパストラル―エンプソン/ベンヤミン/ド・マン」。


課題文献は以下のふたつ。
Paul de Man, "The Rhetoric of Temporality." in Blindness and Insight.
William Empson, "Proletarian Literature." Some Versions of Pastoral. ch.1.

Blindness and Insight: Essays in the Rhetoric of Contemporary Criticism (Theory and History of Literature)

Blindness and Insight: Essays in the Rhetoric of Contemporary Criticism (Theory and History of Literature)

Some Versions of Pastoral (New Directions Paperbook ; 92)

Some Versions of Pastoral (New Directions Paperbook ; 92)


企画のタイトルにあるベンヤミンは?という突っ込みは当然ありうるのだけど、それは他日を期すということらしい。その関係の企画の話も出ていた。

では何故このエントリーのタイトルにハイデガーかといえば、ド・マンのこの論文は実はハイデガー哲学への内在的批判/批評(critique)ともなっている、というのが第一報告の枢要な点であったから。

もうひとつ何故ウィリアムズかといえば、エンプソンのパストラル論を読むことで、ウィリアムズ的な「二重視(double vision」や「複眼視(complex seeing)」というのを理解できるということが、第二報告のひとつの焦点であったから。さらには話はアガンベンにも及んでいた。


今回の話については、きっとそのうち何らかの形で活字になるものと思うので(というか強く望むので)、それを楽しみに。とても充実した内容だった。


そして(これは本題とは関係ないことではあるけれど)、「がまん(patience)」(これはド・マンの鍵語)はもちろん大事だけど、時には怒ることも大事だよな、と。