身内の学会
今日は昼から母校で身内の英文学会。研究発表が2本と、講演。
最初の発表は、20世紀イギリスの女性詩人Stevie Smithについて。彼女が詩作とそれに付した自作の挿絵、そしてその詩を自ら読むpoetry readingにおいて示す、ときに過剰に思えるような「子どもっぽさ」や「軽薄さ(frivolity)」、およびそこで演出される「少女っぽさ」、そういった点に着目。彼女の詩行にはときに非常に批評的に読めそうな部分もあるのだけど、その批評性が、あくまでも「純真な少女」というペルソナを通して語られることで、正面切った「真剣な(serious)」批評ではなく、wise fool的な(という言い方は発表ではしていないけど)批評となっている。と、そういうことなのだろうけど、その際に問題になるのが、そこで演出される「少女」像それ自体をめぐる政治性/イデオロギー性。そのあたりは質疑応答でもいろいろ意見が出たり。
二番目の発表は一気に時代が変わって『ベーオウルフ』について、ベーオウルフが体現する「英雄性」を論じるもの。簡単にまとめてしまえば、彼が体現する「英雄性」(あるいは英雄的美徳)は、肉体的強靭さ(strength)、戦場における勇気(valour)およびそれを示すことで得られる名声/名誉(honour)、そして主君や家来への信義や忠誠心(fidelity/loyalty)といったこと。これだけ取り出せば、他の時代、他の言語で描かれた英雄像とも共通する部分はいろいろあるのだろうけど、ではこの『ベーオウルフ』が書かれた時代・社会において、このような英雄像を描くことにどのような意味(なんなら政治性)があったのか、時間があればそのあたりまで突っ込んでもらえるとありがたかった。とはいえ、古英詩の世界に少し触れさせてもらえたのはよかった。
講演は、W.B.イエイツについて。1916年のイースター蜂起や、1921年からのアイルランドの「内戦」を題材とした詩を取り上げながら、詩人が「失われた過去」でも「来るべき未来」でもなく、「いま、ここ」に現前する「歴史」(それは「暴力」をともなう「悲劇」として現前する)といかにして向き合ったか、そんな話だけど、実はその裏では「大学改革」によって「失われた都立英文という過去」と「来るべき首都大英文の未来」との狭間の「いま、ここ」の我々のありかたが問われていた、そんな気がする。気がするだけ。