トランスアトランティック

昨日は、他にも行きたいところはあったしやることもいろいろあるのだけれど、結局夕方から国立。第2回トランスアトランティック・モダニズム研究会@一橋大学
学芸大の大田先生による講演「冷戦期米国の批評理論とEdward Said ードライサーかジェイムズかの文学史を、トランスアトランティックに、見直すためにー」

内容についてはすでにshintak先生によるレポートがあるのでそちらをご参照。
蛇足というかなんというか、「ドライサーかジェイムズか」という二者択一的なアメリカ文学史観(そして「ドライサーは<なし>」という文学史観)は、少なくとも私がいたころのTMUではそれこそ「なし」だった気がする。単にM山先生がいらっしゃったからというだけだけど。


なんでアーリー・モダン研究者のお前さんがモダニズムの研究会に来たんだい?と数名の方に問われたのだけど、答えは一貫していて、たまにはこういう話も聞こうかと思いまして、サイードですし。

で、やっぱりたまにはこういう話もいいなと。というのはつまり、陳腐な言い方だけど、「理論の歴史化」(あるいはshintak先生の言うように「批評理論の系譜を引き直す」)という作業は大事なわけで、専門分野が17世紀であろうと20世紀であろうと、今現在自分が行っている研究が、(個別の専門分野の内部だけでなく)今現在の「英文学研究」あるいは「人文学」においてどのような位置にありどのような意味を持つのか、そういったことをたまには再考しながらやっていかないと、気づいたら足場が掘り崩されてしまっていた、なんてことになりかねないわけで。

とはいえ、じゃあお前さんがやっているドライデン研究はどういう位置にあってどういう意味を持つんだい?と問われると、いつも狭い分野の話をもにょもにょと返すのだけど。