スピヴァク講演会

7月7日土曜日。昼から国立。
ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァク講演会「人文学における学問的アクティヴィズム」@一橋大学
通訳  本橋哲也(東京経済大学) 伊藤るり(一橋大学
コメント 李静和(成蹊大学) 岩崎稔東京外国語大学
司会  鵜飼哲一橋大学) 


七夕という、中国文化と日本文化との深い関わりを示す日であるとともに、盧溝橋事件、つまりは日中戦争の発端から70周年。その日にスピヴァクを日本に迎えてグローバリゼーションについての講演をしてもらうというのも、機縁である。というのは鵜飼先生の弁(大意)。


で、本来であれば、諸事情で参加できなかった方々のためにも、できるだけ詳細な報告などできればよいのだけど、それは私などの手には余る。ぼちぼち他のブログなどで報告が出始めているし、遅かれ早かれ活字にもなるのではないかと思うので、ごくごく簡単に。(とはいえ、内容は決して簡単ではなかったのだけど。)


まず今回の話は、演題にもあるとおり、大学で人文学を学びあるいは教える人間として、どのように「社会変革の実践」(アクティヴィズム)に関わることができるのかという、昨今の日本の大学の状況を鑑みても非常に重要な問いへの示唆となるもの(おそらく、「答」ではない)。もちろん、グラムシの「有機的知識人」という話がベースのひとつになっているのだけど、大雑把に言ってしまえば、グラムシの議論を発展させたサイードの「知識人」論を、グローバリゼーションとの付き合い方という観点から刷新したもの、となるか。(サイードのその議論には直接は言及していなかったけど。それから「付き合い方」というのは私の言い方。適切ではないかもしれない。)


で、どのように付き合うかというときに出てきたのが「グローバリゼーションを代補する(supplementing globalization)」という言い方。グローバリゼーションを無批判に礼賛したり、あるいはその逆にまったく否定したり自分には関係ないことだとしてしまう(そんなことは無理なわけで)のではなく、いったんそれを受け入れた上で中から変革を行うということのようだけど、ではそれを脱構築とか内破とか言わずに「代補」と言ったその含意は、実はよくわからなかった。これはスピヴァク先生のせいではなく、私がちゃんと聞いていなかったから。ともあれ、その「グローバリゼーションの代補」を "counter-globalization"と呼ぶと。


経済学や政策科学、あるいは情報テクノロジーのような、より直接的にグローバリゼーションと関わる学問ではなく、人文学においてその "counter-globalization"を実践するためには「想像力」という点が問題になる。それを支えるのは「言葉を深く学ぶこと」であり、その両軸が「哲学的に思考する(philosophize)」という営為と「いかに読むか(how to read)」という「文学的」営為である、と。そのような営為によって、経済や政治、テクノロジーの分野での急速なグローバリゼーションの進展やそれに対する「変革」とは違った、グローバリゼーションを代補していけるような「心のあり方(mind-set)のゆっくりとした変革」が可能になっていくのではないかという話。人文学が為し得る「変革」の速度はゆっくりであると、これは何度か言っていたこと。


他にもいろいろと書くべきこともあるのだろうし、コメンテーターのコメントやそれへの応答などもいろいろと興味深かったのだけど、とりあえずこんな感じで。大雑把過ぎるまとめ方をしているし、そもそも理解が間違っている可能性大であるので、突込みなどあれば適宜補ったり訂正したりするということで。