納涼ド・マン祭(盆踊り大会つき)

命名したのは某先生であるが、ともあれ昨日11日はド・マン読書会。もちろん、ド・マンを読んだからといって涼しくなるわけはないが。読書会後は飲み会(こちらが盆踊り大会に相当)となったわけだが、結局三次会まで。その頃にはグダグダで「死霊の盆踊り」と化したという次第。


件のド・マンのテクストについてここでその内容を要約することなど私の能力ではできないし、そもそも安易な要約を拒む性質を持っているのがド・マンの批評の面白さでもあるような気がする。それゆえパッケージ化された「批評理論」にはなかなか収まらないわけで、それがたぶん、日本の「英米文学者」にあまりド・マンが読まれない理由のひとつなのだろうし、それゆえ誤解されている部分もある理由ともなっているのだろうと。とはいえ、私もド・マンを「理解」しているとはとてもいえない。でも少なくとも、ド・マン=脱構築=非歴史的、というのは多分違うんだろうと、半ば直感的に思っている。ここで問題になるのはもちろん「歴史」という概念それ自体なわけだけど、ド・マンは彼のやり方でテクストの(あるいは言語の)「歴史性」というものに切り込んでいるのだろうと思う。