アレゴリー

18日土曜日、午後から高田馬場新英米文学会10月例会「秋の理論研究」@早稲田奉仕園
アレゴリー論―その複数の始まりと未来1『アレゴリーとシンボリズム、アレゴリーと反復―革命の問題』」と題して、文献の解題+αという形で。


最初のセッションは以下のもの。

Seditious Allegories: John Thelwall & Jacobin Writing

Seditious Allegories: John Thelwall & Jacobin Writing

Daniel Fried, “The Politics of the Coleridgean Symbol,” SEL: Studies in English Literature, 1500-1900 46. 4 (2006). 763-79.

アレゴリー」という言葉を(「シンボル」との対比で)現代的な意味での「文学批評」の言説の中で定式化したコールリッジについて。コールリッジは『政治家必携の書』(The Statesman's Manual)において、「シンボル」を「アレゴリー」に対して優位に置いた。彼の定式化自体、私なんかにはよくわからないのだけど、とにかく彼にとっては、「アレゴリー」は「抽象的」、「恣意的」、「非実体的」なものであり、一方「シンボル」は「常に<現実(リアリティ)>に与っており、現実を理解可能なものに」し、また、「全体を明らかにする一方で、それ自身は、自らがその代表である<統一>のなかの、生きた一部分として存続し続け」るものであるとのこと。(東京コウルリッジ研究会編『「政治家必携の書――聖書」研究:コウルリッジにおける社会・文化・宗教』こびあん書房、1998年。127頁)


コールリッジのこの定式化がなされたのは、彼のキャリアの終わりに近い時期のことで、しかも聖書解釈においてアレゴリーとシンボルを扱う文脈におけるものであった。そこで、今回の課題文献をもとに、彼がイギリスでジャコバン主義に関わっていた若い頃のテクストに見られる「アレゴリー」のありようについて、特にその政治的言論を説得的なものにするための有効性について、最初の文献に出てくるJohn Thelwallなどとも比較しつつ。単純化してしまうと、コールリッジがジャコバン主義のような政治的運動から距離をとったことと、彼がアレゴリーに対してシンボルを優位においたこととが、何らか関連するのではないかということか。なかなか「実証的」には難しいようだけど。


いずれにしても、コールリッジによる定式化以降、「文学批評」においては長らくアレゴリーに対するシンボルの優位性が自明視される傾向があったところ、それに対するド・マンによるラディカルな批評が出たわけで、そのあたりがこの会の次回の課題になるとのことで、そのためにも今回の話は勉強になるものだった。


で、ふたつめのセッションが↓。

革命と反復―マルクス/ユゴー/バルザック (批評空間叢書)

革命と反復―マルクス/ユゴー/バルザック (批評空間叢書)

これに関しては、すでにid:melaniek先生とid:shintak先生がご報告なさっているので、そちらをご参照。一度読んだだけではさっぱりだったメールマンの本だけど、今回の話で、どうやって読めばいいかが、おぼろげながら見えた気はする。なので、今週の通勤電車でもう一回読んでみようかと。

ちなみに、上記お二人がそろって「のけぞる」出来事があったわけだけど、私としては、「ああ、やっぱり」という感じ(「不安的中」的な意味で)ではあった。そして、あの質問に「象徴」されるような感想を抱いた人は、フロアにそれなりの数いたのではないかと思ったりもする。